デロリアン誕生の秘密

タイムマシン「デロリアン」が生まれるまでのメイキングを紹介。
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メイキング
 多くのファンには周知の事実だが、脚本の初期段階ではタイムマシンは冷蔵庫のような箱型だった。移動する際には、ピックアップトラックの荷台に乗せて運ぶ予定だったという。また、脚本が最初書かれたのは1980年だったためデロリアンは発売もされていなかった(発売は1981年)。
 1984年、ゼメキスたちは脚本の書き直している時にある矛盾に気付く。ドク・ブラウンが自分と一緒に移動できないタイムマシンを開発することは考えられない。それにいざ撮影を考えた場合に、冷蔵庫を運んで回る設定だと準備が大変で撮影が複雑になるという懸念もあった。そこで解決策として浮かんだのが『車』だった。ゼメキスは最初キャタピラ付きの戦車のようなどこでも走れる車を考えた。しかし、その車は「クールで、かつ人々に驚きを与え、それを目にした子供たち誰もが欲しがる様なものではなければならない」。ジョームズ・ボンドのボンドカーやバットマンのバットモービルのような、観客に衝撃を当たる車が必要だった。
 そして、80年代初頭当時のクールな車といえばデロリアンの他になかった。その際にガルウイング式のドアを見て宇宙船と間違えるというジョークが生まれた。また、当時開発者のジョン・デロリアンがコカイン密売で裁判にかけら全米中が注目、結果デロリアンの悪評が広まっていた。それによってこの車はさらに危険な雰囲気が加わっているとゼメキスは考えた。ゲイルは「独創的で、これを上回るような良い案は出てこないパーフェクトといっていほどのアイデアだった」と述べている。「ユニーバーサルが納得しなかった場合、別の車を候補にするかどうか15秒ほど悩んだよ。金色のメルセデスが挙がったりしたけど、その可能性を考えたのは1分かそこらだったと思う」。事実、映画に向けて様々な指摘を受けたり、議論を重ねてきたが、デロリアンの決定が覆ることはなかった。しかし、プロダクト・プレイスメント(宣伝タイアップ部門)の担当者たちは、代わりにフォード・マスタングを使うことはできないかと考えていた。フォード社から協賛金は1日半分の撮影費用にも相当する75,000ドルだと彼らは説明したが、もちろん一蹴された。ちなみに、個人的な予想ではあるがその流れから55年ビフの車は46年型フォードになったのかもしれない。

ータイムマシンのデザインー


プロバートのデザインの初期デロリアン

 1984年8月、製作開始前の段階になると、次なる問題、核燃料タイムマシンに改造されたデロリアンのデザインを考えることになった。
 最初に取り組んだのは、ストーリーボードを担当していたアンドリュー・プロバートだった(ジョージの初めてSF小説やピーボディの息子が持っていたスペースゾンビの表紙なども手掛けた)。彼は「自分はタイムマシンのデザインもできる」とゼメキスたちを説得してデザインの製作にとりかかった。挙がった最初のデザインはとても見た目はカッコよかったが、「機械的」な外見、完璧な仕上げとハイテクを備えていて、あまりに洗練され過ぎていた。ドク・ブラウンが自分の家の車庫で作るものとは言えなかった。ゼメキスとゲイルが求めていたのは「もっと未完成な感じで、手作り感のあるマシン」だった。
 9月に入ったところで、次なる人物、ロン・コッブにデザインを託した。彼は『エイリアン』『スター・ウォーズ』『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』のデザインを担当しておりゲイルたちとは、ジョン・ミリアスの下で『コナン・ザ・グレート』の時に一緒に仕事をして以来、知り合いだった。しかし、ロンを雇うには莫大な予算が必要だったため、契約できたのは2週間だけ。彼のスタイルはアンティークものより素朴で、2人が目指しているデザインを完璧に理解していた。そのためゼメキスは最初に「こうして欲しい」とメモを渡しただけで、デザインに関してはロンに一任した。ゼメキスとしては、デロリアンのデザインどうこうよりも「農場でデロリアンのガルウイングが開くさまがまるで宇宙船のように見える」と言うギャグを1番重視していたと言う。
  デザインをするにあたってロンはすべてがどのように機能するか完璧に説明できなければいけないと考えた。原子力を用いるなら原子炉が必要であり、原子炉があるなら重要な要素として冷却口(ベント)が必要ということで、後ろに大きな冷却口を付けることにこだわった。また、ドクの性格からして、配線や部品などを取り付ける際に外見なことにあまり時間を割かないだろうと考えて、ケーブルなどは文字通り車の側面に貼付けることにした。
 ここでデロリアンのデザインの仕事を奪われたアンドリューの言葉を借りよう。「自分が(デロリアンの)デザインを任されなかったので、ぼくはコッブのことを好きになれそうもないと思ったよ。でもそんな気持ちでいたのは最初の10分ぐらいだった。彼はまるで毛むくじゃらのテディベアといった感じでね。温かみと気楽さを振りまいていて、優しくて寛大で好きにならずにはいられないんだ!完璧な未来があって、素晴らしいメカを自分で完全に作り上げることができる、という前提であればぼくのデザインは成立しただろう。ぼくは未来派のデザイナーなんだ。ロンのデザインがより広い観客に受け入れられるのは、デザインの内の個々の要素がどうなっているのか、ひと目で分かるからなんだ。それを見て『なるほど、どういうものか分かるぞ!』と言うのが簡単なんだ」


ロンのデザインの冷却口1つのデロリアン
(ナンバープレートは"NO TIME"(時間は存在しない))

助手席を埋めるほどの装置

運転席の後ろ側


 ロンは短期間ですぐに上げたデロリアンのデザインは、ゼメキスとゲイルを満足させるすばらしいものだった。しかし、彼は彼との契約期間が切れて、最終的な仕上げを再びアンドリューに託されることになった。ロンの描いた車内では助手席が次元転移装置やずらりと並ぶスイッチやコンピュータなど埋められていたが、マーティとドクを2人で乗車させる必要が出てきたため次元転移装置は運転席の後部へと移された。また、デザインの段階ではタイム・サーキットの時刻入力はキーボードで行う予定だったが、それも不要になったため現在の数字のキーパッドのみとなった。さらに、ロンの冷却口(ベント)を気に入っていたゼメキスは、アンドリューに2本目の「冷却口」を増やすように指示。この2本の冷却口が巨大な排気管のように見え、バランスも取れて一段と見栄えが良くなっただけでなく、クールでヤバい車と印象をより決定付けさせた。
 1984年10月中ばには、タイムマシンのデザインが完成した。

2つに増やされた冷却口


最終的なデロリアンデザイン

助手席は空けられシンプルに



ータイムマシン・デロリアン製作へー

 デザインが決まると、実際にタイムマシン・デロリアンの製作に取りかかった。
 車の製作はメカニカル効果スーパーバイザーのケビン・パイクとマイケル・シェッフェが担当した。1984年10月、3台のデロリアン購入された。当初、この内の2台は車が故障した際にスタンバイさせておく予備車として想定されており、3台はまったく同じく改造を施す予定だった。しかし、実際に購入してデロリアンを見てみると、車内に映画用の35ミリカメラが入らないことが発覚した。これではカメラを車内に入れての運転席からのショットなど撮れなくなってしまう。そこで3台の車の内、走行用に2台して、1台を車内にカメラを設置するために切断することとなった。
 アンドリューのデザイン元に製作が始まったが、デロリアン製作を担当することになったマイケル・シェッフェは「デザインの細部を見ると、部品の明確な指示はなく、抽象的な表現で描かれていた」。そのため彼は軍の中古品や部品販売店、中古品売り場など、車の装飾する部品に遭遇する可能性がある場所を探しまわった。部品を買ってきては、ガレージに戻り「ああでもない、こうでもない」と部品をはめたという。また、デザインに見合う様な部品がない時は、それに代わる素晴らしい代用品まで考えだした。あとは技術者も3〜4人雇ってひたすら電気系統をつないでもらった。これらの部品は2台ないし、3台分用意して撮影期間中を耐えられる強度が求められた。この3台はわずか10週ですべて作られた。


フラックス・ボックス

 ちなみにケビン・パイクによると、ゼメキスもゲイルもタイムマシンの製作現場によく来ていたが、中でも覚えているのはデロリアンの前方側面などにつけられた通称「フラックス・ボックス(Flux Boxes)」と呼ばれるパーツの色の変更だ。試作段階では青色だったのだが監督らが不評で、他のパーツと統一させるためにグレーに塗り直された。ところが試作段階での写真が流失して、本来は青だったと勘違いしたファンが現れ「フラッグス・ボックス」は青かグレー論争が起きたという。もちろん本来はグレーが正解だ。
 この3台のデロリアンは製作者たちの間でそれぞれ<A車>、<B車>、<C車>と呼ばれるようになった。

A車
A車


B車


C車

<A車>
 この車が内装、外装と共に1番作り込みがされておりデロリアン。基本の撮影はすべてこの車で行われた。

<B車>
 主に走行用として製作されたデロリアン。走行シーンをメインとしているため内装はそこまで作り込まれていない。

<C車>
 車内シーンを撮影するために輪切りされたデロリアン。フロントガラスに向いたシーンはもちろん、助手席からマーティ横顔を撮るサイドショットなどはすべてこの車で、ユニバーサル・スタジオのスタジオ12で撮影された。切断されているため音響ステージ上で、流れる風景をスクリーンに投射しながら撮影が行われた。
 
 元々のスケジュールでは走れる車1台があればいい予定だったが、乗り込むシーンも一緒に撮りたいということになり、まったく外装が同じ車を2台同時に作ることになり大変だったという。さらに、タイムサーキットの時間表時の「月」表示は元々数字だったが、ゼメキスが撮影時に観客が一目でわかるように英字表記に変更する言い出したためC車のみ英字表記となった。そのためA車、B車に関しては3部作を通して「月」表記が数字となっている(劇中内でもこの2台が数字表記なのが確認できる)。

ー撮影時の苦労ー

 ゲイルが撮影中1番残念だったのは、デロリアンが燃料管理部品に問題があり数シーンで求めていたスピードが出なかったことだった。そこで「アンダークランク(通常のコマより少ないコマ数で撮影すること。これを通常のコマで再生すると速く見える)」という撮影法で解決した。
 ファンの方ならご存知かと思うが、デロリアンは発売当時から故障が多い車で有名だったが、映画撮影中も故障は日常茶飯事だった。デロリアンでの撮影は数日後には、この車での撮影は時間に余裕をみないといけないことが決まりとなっていた。しまいには機械工のスタッフまで常駐することになったという。その意味では車内にカメラが入らなかったのは不幸中の幸いだった。なぜならそのシーンの撮影では車を走らせる必要がなかったからだ。さらに、ステンレスボディに傷がついたときには切断した余分のフェンダーやパネルから修理することもできた。
 有名なトラブルとして、撮影は冬に行われたが、マイケル・J・フォックスのスケジュールも都合もあって夜中の2時〜3時など、もっと冷え込み時期に行われた(大体2〜3℃)。デロリアンのガルウイングのドアは標準的なガス式の支柱によって支えられているのだが、ドアを開けっ放しにしておくと10分〜15分ほどでガスが収縮してドアがゆっくりと閉じてしまった。そのため製作スタッフが各テイクの合間に支柱をドライヤーで温めていた。
 ちなみに、マイケル・J・フォックスも相当まいったようである。「あの車が大嫌いだった。堅い金属製のパネルは(ギアを入れる際に)拳をぶつけたら痛くて、骨が折れそうだった。ギアも少ないから力ずくで、変速したように見せかける」(Blu-ray特典映像のインタビューより)。
 こうした困難を乗り越えて撮影されたタイムマシン・デロリアンは映画史上に残る乗り物として賞賛された。そして、デロリアンという車は間違いなく『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のおかげで世紀を越えてファンに愛される車となったのだ。「偉大なアートにはシンプルさに秘訣がある。デロリアンがいまだ人気があるのは、物語を語るうえで必要なことをきちんとやったからだ。最もシンプルなやり方で」ゼメキスはデロリアンが今も愛される理由をこう語る。

ータイムトラベルの映像化ー

 デロリアンの撮影後、もう一つ重要だったのが、タイムトラベルの映像化だった。
 カメラの前でデロリアンがタイムトラベルする際のイメージ化には、視覚効果スーパーバイザーで当時ILMに所属していたケン・ラルストン(現・ソニー・ピクチャーズ・イメージワークス社長)の助けを求めた。大事にしたのはタイムスリップする際の瞬時性。この作品では時空を越える際は一瞬で、時空を超えている間の(管理人注:ドラえもんのような)表現はしないことになった。彼らILMチームはタイムスリップ際に稲妻が出るといった様々なアイデアを持ち込み、最終的にタイムマシン自ら前方に亀裂を作り出して、その中を走り抜け、後には通り道に沿って炎が残るアイデアが決まった。タイムスリップする際は高熱を出すために炎が残り、逆にタイムスリップした後は低温になっていため車には液体窒素をかけて凍り付いているように表現した。とはいえ、ゲイルはあくまでもリアリティを高めるに必要であって、そこまでこだわる必要がないと考えたという。またゼメキスは物理的効果と視覚効果を組み合わせることで最高の映像ができると考えており、その結果、車に何か光を放つ要素が欲しいと要望し、車にネオン管を巻き付けることになった。
 時計台の落雷や光のエフェクトを担当したアニメ監修のウェス・タカハシは「ネアンデルタール人が車のボンネットに座り、アイスピックで時空の構造を破壊していく様な映像」をイメージしたという。
 最終的に劇中のタイムトラベル映像は実写と特撮とアニメーションの3つを合成させたもので、以下の様な工程を踏んでいる。
①車が140キロ(88マイル)に近づくと、裏で技術係が次元転移装置を白く光らせる。
②車のフロントとサイドのネオン・コイルが青く光る。この効果は後にもっと強烈にした。
③車の屋根についた装置からアニメで描かれた光の波や粒子が放出される。
④フラッシュバルブを使った火花の効果によって、デロリアンが時間の壁を越えたことを表す白い閃光が起こる。
⑤道路に引いた化学薬品に火をつけて、車が残した2本の炎の軌跡を作る。


ー劇場公開後ー

 映画公開後にはデロリアン・モーター・カンパニーの社長ジョン・Z・デロリアンから直接お礼のファンレターが届いた。ちなみに、デロリアン・モーター・カンパニーは映画公開の頃は既に廃業しており、デロリアンのブランドは新たなオーナーに引き継がれていた。するとそのオーナーからユニバーサルの法務担当宛てに映画の中で許可なくデロリアンを使用したことに対する訴訟をするという手紙が届いた。そこでゲイルはジョン・Z・デロリアンから届いたファンレターを写しを相手に送りつけるとその話はそれっきりなくなった。
 また、続編が決まると、その新しいデロリアンの会社のトップのある人物からこんな申し出が。「80万ドル支払えば、映画の最後に出てきた様な飛行型デロリアンを作ることができる」。ゲイルは「空を飛ぶデロリアンの撮影には特殊効果を利用するほうがいいと考えている」と返事。彼らが本当に空飛ぶデロリアンを作ることができたかはもちろん不明である…。PART1公開当時には国防総省から「ミスター・フュージョンについて何を知ってるか教えろ」と言われたり、人気作には変な手紙がいっぱい届くんですね。

ー続編のデロリアンー

 続編を製作にあたって、デロリアンは新たに3台購入された。PART1で使われたデロリアンは1台とC車は倉庫にあり、もう1台はユニバーサル・ツアー用に展示されており、その3台も再び集められ修理する一方、新たに購入したデロリアンにも初代デロリアンと同じデザインが施された。当時、購入した中古部品を再び購入することは困難だったが、続編は予算が大幅に増えたためオリジナル部品を製作して装飾された。また新たなスタッフとしてメカニカル効果スーパーバイザーとしてマイケル・ランティエリが迎えられた。
 前回の撮影の反省を踏まえ、2台は高性能なフォルクスワーゲンの新しいエンジンと数多くの新部品で完全に改修され、性能とスタミナは改善、PART3の過酷なオフロードの中を走り切った。また、PART2の飛行シーン用にファイバーグラス製で作られた軽量な車も製作された。最後の1台はA車、B車と共に列車の車輪がつけられ主にレール・デロリアンとして使用された。
 撮影の過程で、1台の車から部品を外して他の車に付けるというようなことも行っている。常に予備の車があるということは故障の際にもすぐに代わりきくので、このような数々の前作の教訓と豊富な予算のおかげで続編でのデロリアンに関する問題は遥かに楽になった。
 また、PART2で飛行しているように見せるためC車には「ジングルリグ」と言う装置を車体の下に取り付けて、ふらふらと浮いている動きを再現した。参考までに当時の飛行シーン撮影のメイキング動画がこちら。

ー撮影終了後のデロリアンー


ピータソン自動車博物館内に展示されるA車

 最後に撮影に使われたデロリアンたちのその後について。ファイバーグラス製は撮影終了後、ユニバーサル・スタジオ内で保管されていたものの劣化しすぎたために廃棄された。しかし、5台のデロリアンは現在でも残っている。
 まず3部作にわたって活躍し完璧な装飾を持ったA車。こちらは撮影終了後、長年にわたってユニバーサル・スタジオの敷地内に野ざらしで放置されてボロボロの状態だった。そこでボブ・ゲイルがこのA車の修復計画を立ち上げ、ジョー・ヴァルザー、テリー・マタラス率いる熱烈なBTTFファンを集め「タイムマシン修復チーム(Time Machine Restoration)」が発足。2010年から2年かけてA車の修復が行われた。痛んでいる部品を交換したら、その部分はレプリカになってしまうということで、ネジの一本まで修復できるもは修復するというこだわりプロジェクトだった。その様子は30周年Blu-rayのボーナスディスクに収録。その復活したデロリアンは2016年4月20日よりユニーバサルから離れて「ピーターソン自動車博物館(Petersen Automotive Museum)」内にて常設展示されている。
 B車はPART3のラストで列車に破壊されるシーンで使用された後、バラバラになったパーツはかき集められ、しばらくユニバーサル・スタジオに展示された。その後、レストランチェーン「プラネット・ハリウッド」に売却され1995〜2010年までハワイの「プラネット・ハリウッド・ホノルル」で上下逆さに飾られてたあと、マサチューセッツにいる世界屈指のBTTF好きであるビルとパトリック・シェー(BILL & PATRICK SHEA)親子の元に渡っている。この親子のコレクションは凄まじく、C車(一部はUSJのレプリカ・デロリアン製作に使われていた)や、PART3の撮影で荒野を走ったホワイトウォール・タイヤのデロリアンも所有している。ちなみに、シェー親子が所有するこのPART3のデロリアンもなかなかの過酷な運命を辿っており、映画の撮影終了後、日本で行われた「ハリウッドSFX博物館」に展示されるために海を渡った。アメリカに戻った後、誰にも手入れをされずユニバーサル・スタジオ内で野ざらしで展示され、車体はボロボロ、ほぼすべてのパーツが盗まれ、ついには車体の上には折れた木の枝が置かれて放置されているような状態だった。最終的には鍵も紛失してドアも開けられず、もはやユニバーサルが廃棄を考えていた時に有名なコレクターだったデシ・ドスサントス(Desi DeSontos)が購入。7〜8年をかけて修理をし、2011年にオークションに出品されシェー親子が落札した。その金額は54万1000ドル(2025年だと約8150万円)だという。
 残る1台のうち、PART3でB車と共に線路に置かれたデロリアンは「ユニバーサル・スタジオ・オーランド」内で機関車タイムマシンと一緒に展示。「ミスター・フュージョン」が巨大な煙突みたいなのに交換されているのが特徴。時期によってはレプリカのデロリアンが展示されていることもあるようでフロリダに行った際は要注意。PART3で荒野を走ったもう1台デロリアンだけが現在では行方不明で、ユニバーサル・スタジオに展示されてすっかり劣化された後に、C車とパーツと共にUSJに送られたとされている。もしかしたら、あのライドに展示されていたデロリアンに使われていたのかも?